迷走

 06

「おい、こらっ、どこに行くんだ」

 そう叫んで男が背後から追い掛けてくる。

 僕の心臓はドクドクと音が鳴るほど鼓動を叩き、毛穴からはドッと汗が吹き出した。

「駅員さん、助けてっ!」

 僕は今まで上げたことのないような、大きな声で叫んだ。

 僕の声が聞こえたのか、慌てて駅員が人波を掻き分けて、こっちへ向かってくる。

 よかった助かった。

 ほっとしたとたん、男の姿を確認しようと振り返る。すると男は慌てて人ごみの中に逃げていった。

 僕は立っていられずに、その場にしゃがみ込んでしまう。

「大丈夫かい、君」

 駅員は心配そうに声を掛けてくれた。

「あの……はい、大丈夫です」

「気分でも悪いの? 立てる?」

 どうやら駅員は僕が体調を悪くしたと思ったようだった。

 そう勘違いしてくれた方が僕にはありがたかった。

「ちょっと目眩がして……でも、もう随分ましになったんで、大丈夫です」

「きっと朝のラッシュで参ったんだね。あまり無理しないで、できるなら家族の方に迎えに来て貰ったらいいよ」

 駅員はそう言って僕に肩を貸してくれて、ベンチに座らせてくれた。

 礼を言うと駅員は元の勤務に戻っていく。

 僕は携帯と生徒手帳を取り出した。

 ドキドキと緊張しながら、そのメモの番号に電話をする。

 コールは5回で繋がった。

「もしもし……」
 
 久しぶりに聞く彼の声だった。

 僕は震える声で話す。
 
「元木……さん?」

「真澄か……本当に?」

「元木さん……助けて、僕……」

 久しぶりに彼の声を聞いたせいか、感情が昂っているせいなのか、僕はまた涙が溢れた。

「真澄っ、どうかしたのか、今どこにいる!?」

 僕は痴漢にあったことと、自分のいる駅を教えた。

 すぐ行くから待っていろと言って、彼は電話を切った。

 それから彼を待つ間、酷く僕の心はざわついていた。

 一体、彼になにを話せばいいのかだとか。

 他の男の手で感じた僕を彼はどう思うだろうかとか。

 考えれば考えるほど、ここから逃げ出したくなった。

 だけど、僕の躯の奥に灯った官能の炎は、まだ燻ったままで疼いている。

 時間にして15分ぐらいだったが、随分長く感じた。

 それなのに、人ごみの中に彼を見つけたとたん、そんなことは全部吹き飛んでいた。

「真澄……」

 きっちりとスーツを着込んだ彼を見て、僕は全身の力が抜けて行くような気がした。

 ホッとして、それから胸に温かな灯がともる。

 元木さんは、息を乱していつも綺麗に撫で付けられている前髪が崩れている。
 
「立てるかい?」

 僕はこくりと頷いた。

「おいで……」

 元木さんは強張った表情で僕に手を差し出した。

 この手を取れば僕はもう元にはもどれない。

 だけど、それはどうしようもなく甘い誘惑。

 僕のわずかな理性と罪悪感が誘惑の囁きに耳を塞ごうする。

「真澄、おいで」

 しかし、それは元木さんの強い声で吹き飛ぶ。

 僕は彼に向かって手を差し出した。

 大きな手が僕の手を掴んで、そこから引き上げた。

  
 END



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