Real

 60

 久しぶりに見た司は、包帯でぐるぐる巻きになった痛ましい以前の姿とは違って、すっかり元気そうだ。ただ片足だけは少し補助がいるようで松葉杖をついている。

「随分、治ったんだな」
 感慨深く言った。

「まあね、まだ完治まではしばらく掛かりそうだけどな」
「そうか…よかった」

 心からそう思った。あの時は本当に司が死んだと思ったから、こうやって元気になれるなんて幸運だったのだ。

「そっちこそどうしたんだよ、急に家に来るなんて。荷物でも取りに来たのか?」

 こんな風に普通に会話することだって数ヶ月前までは永遠にないと思っていた。

「いや違う。母さんからお前が留学するって聞いて、気がついたらここに来てた」

 正直に言うと司は驚いたように目を見開く。

「そうか、母さんから聞いたんだ。まあ、こんなところで立ち話もなんだから家に入ろうぜ」

 もちろん司の提案に異存はなかった。


 リビングのソファーに座る。雑然と散らかっているというほどではないが、脱いだパーカーや机の上に筆記用具が置いたままで、どことなく生活感が漂っている。

「ビールかミネラルウォーターしかねーけど?」

 未成年のくせにビールかよと思いながら、水でいいよと答えた。すると、ペットボトルのままで渡される。

「留学って、どこに行くんだよ」

 司は当たり前のように缶ビールを開ける。引っかかりはするが、今さら注意はしない。

「ニュージーランド…」

 一度も海外など行ったことのない俺には酷く遠く感じた。

「いつ?」
「準備が整ったらすぐにかな? あと、一ヶ月ぐらいは掛かりそうだけど」

 一ヶ月なんてきっとあっという間だ。

「いつまで?」
「さあ? 全然決めてねーけど、取り敢えずは大学卒業するまではあっちで暮らすつもりだ。まあ、気に入ったらそのまま仕事するかもな」

 それを聞いて俺は確信した。
 ああ、やはり。やはり、司はこのまま帰ってこないつもりだと。

「なんだよ。ちゃんと独り立ちするつもりだぜ。そんな顔するなよ」

 俺が一体どうゆう顔してるっていうんだ。

「ちゃんと更正するって言ってんだから褒めろよ」

 胸が苦しい。
 そうだ、弟がちゃんと更正して独り立ちするって言ってるのだから、笑って良くやったなって、俺は言わなければならない。

 俺は司の兄なんだから。

 それなのに、俺の顔は凍りついたままで笑顔のひとつも、労いの言葉も吐けないままだ。

『嫌だ!』

 その思いは、最初は小さな点だったのに、紙片に火をつけたみたいに。あっという間にか心の大部分を黒く燃やした。

 ずっと司と寄りを戻したいと思っていた。昔と同じように司の愛情も信頼も敬意も自分1人にそそいで欲しいと。

 兄弟の仲は修復した、司も普通の兄弟のようになろうと言った。
 たぶん、司は間違っていない。

 間違っているのは…俺だ。

 もう、司に会えない。

 ゾッ、とした。
 魂の半分が裂かれるような痛み。

 ああ、なんてことだろう。
 なんて醜い感情だ。
 この身勝手で醜悪な黒い黒い執着心は、俺の心を悪性のウィルスのように蝕んでいく。

「行くな」

 口にした途端、しまったと思った。
 絶対に口にしてはいけない言葉だった。

 司と目があった瞬間、血の気が引いていく。
 すぐにでも否定しようと思った。それなのに、頭の中からは一言の言葉も浮かばない。

「それ…どうゆう意味だよ」

 司がまるで射抜きそうなほどの強い視線で睨みつける。

 何かを言わなければならないと、脅迫にも似た焦りでじっとりと汗をかいた。

 その瞬間、目頭が熱くなったと思った途端に、つーと暖かいものが頬を伝う。

 まるで言葉の代わりに感情が爆発したかのように涙が後から後から溢れてきた。

「兄さん……」

 司が酷く動揺したように、兄と呼んだ。

「行くな…司…行かないでくれ…」

 感情とは裏腹に、俺の口から溢れたのは絞りきるみたいな、かすれた弱い声だった。
 それは懇願ではなかった。俺は決して司の障害になりたいわけじゃない。

 それはただ純粋な願いだ。

 兄という責任も、肉親だという常識も、過去の負い目すら剥ぎ取って、しがらみも何もない本心だった。

 今だけ、この瞬間だけのくもりのない純粋な思いだ。

 そして、まるで天からの啓示のように、俺はたった今、理解した。

 ああ、そうだ。

 これは、この気持ちは恋だ。

 あまりにも近すぎて、この執着は別のものだと思い込んでしまっていた。

 目を背けて来たけれど、俺はずっと司と一緒にいたかった。自分だけが司に嫌われて、一緒にいることが出来なくて辛かった。たから、彼女を作って自分は幸せだと言い聞かせていたけれど、そんなことは全てまやかしだった。

 司のいない俺の人生なんてなにも意味なんてない。

 今ならわかる。すぐ目の前に司がいるから、自分が司の代わりにしていたものがどれほど陳腐なまやかしだったのかを。
 司の代わりになるものなど何にもないのだ。

 涙が止めどなく溢れてきた。

 この異常な執着も、独占欲も、兄弟という枠を踏み越えて、俺は司を愛している。

 どうして今になって気がついたのか、いや……たぶん、今だからこそ気づいたのだろう。

「隆一……なんで泣くんだよ」

 司は随分と狼狽した様子で尋ねる。

 だが、俺は何も言えずに泣いていた。

 酷く切なくて、苦しくて、悲しくて……。
 きっと、俺は自分の恋を知ったと同時に失恋したことを、どこか本能で理解していたのだ。

「そんなに俺が留学するのが嫌なのか?」

 とても答えられる状態じゃなかったが、このままだと司が勘違いをしてしまう。それだけはどうしても避けなければならなかった。

「違う…お前は……好きにっ、生きろ。ひっ…ううっ、俺がっ…さっき言った、のは…忘れて、くれっ」

 俺はしゃくり上げながら、必死に涙を拭いた。

 最後ぐらいは、少しでも格好いい兄でいたかった。

 こんな俺のつまらない執着に司を付き合わせていいはずがない。それなのに拭っても拭っても、溢れる涙は目に映る司の姿をぼやけて見せる。

 成長してカッコ良くなった司の姿をもっとちゃんと見たいのに、気持ちと裏腹に涙腺は壊れたかのように眼をぬらす。もう、たぶんこの機会を逃せば、もう二度と司を見ることはないかもしれない。

 そう思うと、止まるどころか余計に涙が溢れてきた。

 自分の格好悪さがつくづく嫌になるなと思っていたら、不意に抱きしめられた。

 暖かい温もりに急に包まれて、背中に両腕が回される。広い胸板に頬を押し付けられて、司は言った。

「泣くなよ、隆一」

 耳元で囁かれて頭を撫でられる。自分よりずっと大きな手だった。

「隆一が泣いているのをみると、俺も辛い」

 全身を稲妻のような何かが駆け抜けた。瞬間に心臓が跳ね上がり、異常なほどに心拍数が上がる。顔だけでなく全身が紅潮して熱くなった。

 思わず司の体をドンッと突き飛ばす。

 見開いた司の瞳は少し驚いているようだったが、俺はそれどころでは無かった。鼓動が煩いほどに高鳴っている。軽いパニックを起こしたようで、何がなんだか分からなかった。

「ごめん、司。俺……また、出直してくる」

 お陰で涙は止まったが、とても司と一緒いられる状態じゃなくて、踵を返して部屋から出て行こうとした。

「待てよ!」

 逃げるように立ち去ろうとする俺の手を掴んで司は引き止めた。

「勝手に帰るなよ」

 痛いくらい掴んだ司の手に、俺はただ動揺するだけだった。

 


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